映画、というかフィクションではやけに聖人として描かれることの多い障害者を「ちゃんと人間らしく」描いたそう。
はてさて。
筋ジストロフィーにかかりながらも自らの夢や欲に素直に生き、皆に愛され続けた実在の人物・鹿野靖明さんと、彼を支えながらともに生きたボランティアの人々や家族の姿を描いた人間ドラマ。大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞をダブル受賞した書籍を原作に、「ブタがいた教室」の前田哲監督がメガホンをとり、大泉洋が主演を務めた。北海道の医学生・田中はボランティアとして、身体が不自由な鹿野と知り合う。筋肉が徐々に衰える難病・筋ジストロフィーを12歳の時に発症した鹿野は、いつも王様のようなワガママぶりで周囲を振り回してばかりいたが、どこか憎めない愛される存在だった。ある日、新人ボランティアの美咲に恋心を抱いた鹿野は、ラブレターの代筆を田中に依頼する。しかし、実は美咲は田中と付き合っていて……。医学生・田中を三浦春馬、彼の恋人・美咲を高畑充希がそれぞれ演じる。
引用:映画.com
障害者にどう接するか。
そんなことすら考えないのが本当はいいんだろうと思う。
「困っている人がいたら助ける」というのは、どんな人間関係でもそうあるべき。
本作の主人公鹿野さんは、自分のことの多くを自分ですることができなくても自由に生きる権利はある。という信念を持ち、それを全うし続けた勇気は素晴らしい。
だが、やはり悪戯やわがままの種類から悪意が見えてしまう。
そこはもっとしっかりと周りの人間が嗜めるべきではないだろうか。
両親に頼らないことは素晴らしい考えだけど、それだからこそ、誰かがそれはダメだ、と言わなきゃいけないラインを超えてしまっている。
そういう行動が差別につながっていく、というのは絶対に考えすぎということはないでしょう。
監督がそういう鹿野さんのワガママや悪戯を面白おかしいものとして描いているところに嫌なものを感じてしまう。
モデルとなった方が本当にここまでワガママだったのか疑わしい。
演出がすぎるのでは、そしてその演出の方向が少し間違っているんじゃなかろうか。
とにかく、ボタンティアの方々の描き方が間違っているんだよな。
せっかく多くの人が鹿野さんに関わっているんだから(鹿野さんを中心とした)人間関係をもっと描けたはずなのに、どうにも平和ボケしたような方々。
テーマもいいし、鹿野さんのキャラクターも良い。
監督が「障害者でも自由に」じゃなくて「誰でも自由に」ってテーマを見つけられなかったのが大きな失敗。
制作が日テレだそうで、なるほどなぁ、という感じ。
でも、僕らはもっと「人間」というものをちゃんと考えるべきだよなぁ。
と思った。思わされた。
そういう意味ではいいきっかけになる作品なのかもしれない。