子供が主人公ではあるが、死や暴力がたくさん出てきて不快なものであることは間違いない。
そのうち、人によっては無意味な死や無意味な暴力に見えてしまうだろうもので、拒絶する人が多くいる小説でもあると思う。
ともに、メフィスト賞出身で、理不尽な暴力や異常な性などを描くことで、舞城王太郎と比較されることの多い作者であるが、僕が圧倒的に舞城王太郎の方が好きなのは、舞城王太郎の小説や言葉の根底には愛を感じるからだ。
その点、佐藤友哉はもっと自虐的にそして、俯瞰的に世の中を見ているような気がする。
そのおかげで、今作も純文学としてはリアリティが薄まっていて、残酷な物語なのに感情移入がしやすくなっている。
血と暴力と差別に満ちた1冊だが、読了後には不思議な爽快感すらある。
その違和感こそが佐藤友哉の特徴だし、技量のすごさなんだろう。
過去の呪縛から逃れるため転校した神戸の小学校では、奇妙な遊びが流行っていた。「牛男」と呼ばれる猟奇連続殺人鬼の、次の犯行を予想しようというのだ。単なるお遊びだったはずのゲームは見る間にエスカレートし、子供たちも否応なく当事者となっていく―(表題作)。新世代文学の先鋒が描き出す、容赦ない現実とその未来。
引用:楽天ブックス
短編集ではあるが、一貫したテーマのもと書かれた小説でそれぞれの感想というのはおかしいかもしれないけれど、それでも気になったこと、思ったことをまとめておこう。
僕と弟と妹以外の全てのものに意味が見出せない「僕」の成長物語。なのか堕落なのか。
妹を探している間の本当に(小説として)意味のないものを強調する『』が読者に何を伝えてくれるのか。意味のないものであるのだから何も意味なんてないんはずなんだけど、そうであれば描写すら必要が無いはず。
僕は作者の発したメッセージ、発してすらいないメッセージを受け取ることができなかった。
表題作であるだけでなく、間違いなくこの1冊の中心に位置する物語。
差別や偏見、いじめなどの理不尽な悪意によって苦しめられ、虐げられる子供たちが抗い、苦しむ短編。
救いの無い1冊で、最低最悪ってわけでは無いにしろ救いの無い結末のはずだがどこか爽快感のある結末。
「先生」のような大人の登場だったり、人形から人間になれた主人公だったり、間違いなく、成長物語であるおかげ。
全ての短編がリドルストーリー的に、結末の次がありそうに、未来(肯定的な意味ではなく)を感じさせる終わり方をしている。
それはきっと子供特有の「これから先」の可能性の幅広さを感じさせる。
主人公が死体である「死体と、」ですら、そう感じさせるのは作者の力量のすごさ。