筒井康隆は天才だ。
天才の定義がどんなものかはわからないけど、少なくとも筒井康隆は天才だ。
小説の楽しさ、SFの楽しさ、インターネットの楽しさと、それぞれのつまらなさがたっぷり詰め込まれた物語。
つまらなさ、という言葉は間違いだな。
退屈さ、と言った方がまだ近いかな。
とは言え、1冊として読むと退屈な部分は全くない。最初から最後までずうっと楽しい。
この小説は朝日新聞で1991年10月〜1992年3月まで連載されていた長編で、恐らく新聞連載で読んでいた人の中には、話が色々な所に広がりすぎていて、退屈に思った回が多々あった人が多くいたのではないかと思う。
コンピューター・ゲーム『まぼろしの遊撃隊』に熱中する金剛商事常務貴野原の美貌の妻聡子は株の投資に失敗し、夫の全財産を抵当に、巨額の負債を作っていた。窮地の聡子を救うため、なんと“まぼろしの遊撃隊”がやってきた! かくして債務取立代行のヤクザ達と兵士達の銃撃戦が始まる。虚構の壁を超越し、無限の物語空間を達成し得たメタ・フィクションの金字塔。日本SF大賞受賞。
引用:Amazon
あらすじを読むといつもの筒井康隆のドタバタSFコメディという感じだけど、”メタ・フィクションの金字塔”という言葉の通り、メタ・フィクションとしての1つの完成系ではなかろうか。
いや、メタ・フィクションというよりは、メタ・ドキュメンタリーと言えるような小説。
とある惑星で謎の生物と戦うシーンから始まったかと思いきや、それは企業の役員達が楽しむネットゲームの話。
そこから場面が大きく変わり、役員の妻などが参加するパーティーの場面で株式投資の話が展開されていく。
そして、場面はさらに大きく変わり、作者の代弁者として「朝のガスパール」の作者として作家と編集者が出てくる。
作者(筒井康隆)のもとへ読者から投書やパソコン通信での届いた感想や提案ついて憤慨したり批評したり。
“読者参加型”ということで読者の提案などによって、物語の展開が変わっていく。
それは、ただ単に読者の好みの物語なっていく、というような安易なものではなく、あくまで物語をコントロールしているのは物語にとっての神(朝のガスパールにおいては神としてほどの力は持っておらず、せいぜいリーダーと言った所)としての作者であって、制御不可能な部分を作者が楽しんでいるように感じる。そしてその楽しんでいる感覚が小説としての楽しさに繋がっていて、「朝のガスパール」をメタ・フィクションの金字塔たらしめているし、SFとしても素晴らしい作品になっている。
今読むと、インターネットやネットゲームなどなど、先見の明があるな、と思ったんだけど先見の明というよりは向かいも今も人間の本質は何も変わっていない、ということではないかな。
筒井康隆は人間の本質を見ることができるおかげで未来のことを書くと先見の明があるように見えるだけなのではないかな、と。
これだけ話を広げ、そこに読者までを巻き込みながらも、面白いまま最後まで突っ走れるすごさ。
筒井康隆天才だ。